安全配慮義務で企業に求められること
企業がカスタマーハラスメントへの対策を講じる際、法的根拠となるのが労働契約法第5条に定められた安全配慮義務です。この義務は、単に物理的な安全環境を整えるだけでなく、心理的な安全も含む広範な従業員保護を企業に求めています。カスハラが深刻化する現代において、この義務の理解は企業の責任を果たすための第一歩といえます。
労働契約法第5条の要点
労働契約法第5条は「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする」と定めています。これは、企業と従業員が労働契約を結ぶ際に当然に生じる義務とされており、安全配慮義務の法的根拠として機能する規定です。
「生命、身体等」という表現には、身体的健康だけでなく精神的健康も含まれると解釈されています。カスタマーハラスメントによって従業員がストレスやメンタルヘルスの問題を抱えた場合、これは明確に安全配慮義務の対象となります。企業は顧客対応業務における心理的負担についても配慮する責任があるのです。
この義務は結果責任ではなく、「必要な配慮をする」という手段義務として理解されています。つまり、完全にカスハラを防止できなかったとしても、合理的な対策を講じていたかどうかが問われることになります。
判例が示す使用者の責務
安全配慮義務の具体的内容は、多くの判例によって明確化されてきました。特にカスハラに関連する判例として、NHK(日本放送協会)関連業務に従事していたコミュニケーターが顧客からわいせつ発言や暴言などの不当要求を受けた事案があります。この事件では、企業の対応が争点となりましたが、裁判所は企業が一定の防止策や対応マニュアルを整備していた点を評価し、安全配慮義務違反は認めませんでした。
判例では、使用者には「危険を予見し、これを回避する措置を講じる義務」があると示されています。カスハラのリスクが想定される業務においては、事前に対応マニュアルを整備し、従業員への社内研修を実施することが求められます。また、実際にハラスメントが発生した際の相談窓口設置も重要な要素です。
さらに判例は、個別の事案だけでなく、組織として再発防止策を講じる責任も明確にしています。一度カスハラが発生した場合、同様の事態を防ぐための体制整備が企業に求められるのです。
違反時の民事責任の根拠
安全配慮義務に違反した場合、企業は民法上の債務不履行責任(民法第415条)を負うことになります。例えば、従業員が業務中にカスハラ被害を受けたにもかかわらず企業が適切な対応を怠った場合には、企業が損害賠償責任を負う結果となり、法的な問題に発展しかねません。
損害賠償の範囲には、治療費などの直接的な損害だけでなく、精神的苦痛に対する慰謝料、休業による逸失利益なども含まれます。特にメンタルヘルスの問題で長期療養が必要となった場合、企業が負担する金額は大きくなる可能性があります。
また、労働契約法違反は民事責任にとどまらず、企業の社会的評判にも影響を及ぼします。従業員のメンタルヘルス保護を怠る企業として認識されれば、人材確保や取引先との関係にも悪影響が生じるリスクがあります。企業の方針明確化と実効性のある対策が求められる背景には、こうした多面的なリスクがあるのです。
カスハラの定義を押さえて労災認定の重要性を理解する
カスタマーハラスメントへの適切な対応には、まずその定義を正確に理解することが不可欠です。厚生労働省ガイドラインでは、カスハラを「顧客等からのクレーム・言動のうち、当該クレーム・言動の要求の内容の妥当性に照らして、当該要求を実現するための手段・態様が社会通念上不相当なものであって、当該手段・態様により、労働者の就業環境が害されるもの」と定義しています。この定義に基づいた労災認定基準の理解は、企業が講じるべき雇用管理上の措置を明確にします。
厚労省の判断基準を確認する
厚生労働省のガイドラインでは、カスハラを判断する際の重要な視点として「要求内容の妥当性」と「要求実現手段の相当性」の二つを挙げています。
具体的には、以下のような行為がカスハラの判断基準となります。
- 身体的な攻撃(暴行、傷害)
- 精神的な攻撃(脅迫、中傷、名誉毀損、侮辱、暴言)
- 継続的な言動(過度な要求の反復、長時間の拘束)
これらは従業員の就業環境を害する行為として、企業が保護すべき対象となります。
判断にあたっては、個別の状況を総合的に考慮することが重要です。従業員の受け止め方だけでなく、客観的に見て一般的な労働者が苦痛を感じるかどうか、業務の遂行に支障が出ているかなどが評価されます。
正当なクレームの判断基準
カスハラ対策を進める上で、正当なクレームとの線引きは重要な課題です。顧客には商品やサービスに対して意見を述べる権利があり、企業はそれに真摯に対応する責任があります。しかし、その表現方法や要求の程度が社会通念を超える場合、カスハラとして対処する必要があります。
正当なクレームは、商品やサービスの不具合や不適切な対応に対する合理的な指摘であり、改善を求める内容が妥当な範囲にとどまります。一方、カスハラは要求内容が過度であったり、感情的な攻撃を伴ったり、執拗な繰り返しが見られたりします。
顧客対応マニュアルを作成する際は、この境界線を明確にすることが重要です。従業員が自信を持って対応できるよう、具体的な判断基準と対応手順を示すことで、就業環境改善につながります。また、判断に迷う場合の相談体制を整えることも必要です。
具体的な類型から犯罪該当性を考える
カスタマーハラスメントの中には、刑法上の犯罪に該当する行為も含まれます。暴行罪(刑法第208条)、傷害罪(刑法第204条)、脅迫罪(刑法第222条)、強要罪(刑法第223条)、侮辱罪(刑法第231条)、名誉毀損罪(刑法第230条)などが代表的です。
例えば、従業員に対して「殺すぞ」などの発言をする行為は脅迫罪に、土下座を強要する行為は強要罪に該当する可能性があります。長時間の拘束や執拗な謝罪要求も、状況によっては強要罪や監禁罪(刑法第220条)となり得ます。企業はこうした犯罪該当性のある行為から従業員を保護する責任があります。
犯罪該当性が疑われる場合、企業は警察への通報や弁護士への相談など、法的措置も検討する必要があります。従業員保護の観点から、被害を受けた従業員を一人で対応させず、組織として毅然とした態度を示すことが重要です。証拠の保全やプライバシー保護にも配慮しながら、適切な対応を進めることが求められます。
2023年の労災認定基準改正の影響
2023年9月、厚生労働省は精神障害の労災認定基準を改正し、カスタマーハラスメントを明示的に「業務による心理的負荷」の評価対象として追加しました。この改正により、カスハラによる精神疾患の労災認定がより明確化され、企業の対応責任も一層重要になりました。
改正された認定基準では、カスハラの心理的負荷の強度を「弱」「中」「強」の三段階で評価します。「強」と評価される事例としては、顧客から治療を要する程度の暴行を受けた場合、顧客から継続的な暴言や脅迫など心理的負荷が大きい言動を繰り返し受けた場合などが挙げられています。
この改正により、企業はカスハラ対策を具体的に実施する責任が一層明確になりました。労災認定される事態が発生すれば、企業の安全配慮義務違反が問われる可能性が高まります。そのため、ハラスメント相談体制の整備や従業員のメンタルヘルスケアの充実といった、予防的な取り組みが急務となっています。
カスハラ放置が招く企業リスク
カスタマーハラスメントを放置することは、企業にとって多大なリスクをもたらします。たとえば、労災認定による経済的負担や損害賠償請求の可能性に加え、人材流出によって組織力が低下するなど、その影響は多岐にわたります。特に、対策を講じていない企業では、こうしたリスクが現実のものとなる可能性が高まるため注意が必要です。
労災認定が企業にもたらす負担
カスハラによって従業員が精神疾患を発症し労災認定された場合、企業には複数の負担が生じます。まず直接的な費用負担として、労災保険料率の上昇が挙げられます。労災事故が増えると、企業が支払う保険料が増加する仕組みになっているため、企業経営に継続的な影響を及ぼしかねません。
また、労災認定された従業員への対応には、代替要員の確保や業務分担の見直しなど、組織運営上のコストもかかります。特にコールセンターや接客業務など、カスハラが発生しやすい部門では、従業員の休業が業務全体に影響を及ぼすことがあります。
さらに、労災認定の事実は企業の評判にも影響します。従業員保護を怠る企業というイメージは、採用活動や取引先との関係にも悪影響を与えかねません。雇用管理上の措置が不十分であると認識されることで、企業の信頼性が損なわれるリスクがあります。
損害賠償リスクの現実
安全配慮義務違反によって損害賠償請求を受けた場合、企業が負担する金額は決して小さくありません。事案の内容や被害の程度によっては、高額になる可能性があります。特に、長期の療養が必要となる精神疾患を伴うケースでは、治療費や休業による損害、さらには慰謝料まで含めた負担が大きく膨らむ点に留意する必要があります。
損害賠償のリスクは、単に金銭的負担だけではありません。訴訟に至れば、対応のための時間と労力、弁護士費用などの間接的コストも発生します。また、裁判が公開されることで、企業の従業員保護体制の不備が社会的に明らかになるリスクもあります。
人材流出が組織に与える影響
カスハラ対策が不十分な企業では、従業員の離職率が上昇する傾向があります。顧客対応業務において心理的負担が大きく、かつ企業からの適切なサポートが得られない場合、従業員は転職を選択せざるを得なくなります。特に経験豊富な優秀な人材ほど、より良い就業環境を求めて流出しやすくなります。
人材流出は、残された従業員への負担増加という悪循環を生みます。退職者の業務を既存メンバーでカバーする必要があり、一人あたりの業務量が増えることで、さらなる離職につながる可能性があります。また、新規採用と育成にかかるコストも無視できません。
組織としての知識やノウハウの蓄積も失われます。顧客対応の経験や応対品質の維持には、熟練した従業員の存在が不可欠です。人材流出によって、組織全体のサービス品質が低下し、結果として顧客満足度にも悪影響を及ぼすリスクがあります。従業員のメンタルヘルスを守り、就業環境改善を進めることが、組織の持続的な成長には欠かせません。
安全配慮義務を満たす現場対策の実践ポイント
安全配慮義務を果たすためには、法的理解だけでなく、現場で実践可能な具体的な対策が必要です。ここでは、企業が実際に取り組むべき現場対策の実践ポイントについて詳しく解説します。
対応マニュアルの必須要素
カスハラ対策における顧客対応マニュアルには、いくつかの必須要素があります。まず、カスタマーハラスメントの定義と具体例を明確に示すことです。従業員が「これはカスハラである」と判断できる基準がなければ、適切な対応は取れません。厚生労働省ガイドラインに基づいた定義と、実際の現場で起こり得る事例を記載します。
次に、段階的な対応手順を明記することが重要です。初期対応(傾聴と事実確認)、エスカレーション(上司や専門部署への報告)、組織的判断(継続対応か関係終了かの決定)、事後ケア(従業員へのフォローと再発防止)という流れを明確にします。各段階での判断基準と具体的な行動を示すことで、従業員が迷わず対応できるようになります。
さらに、従業員を守るための方針を明示します。「従業員は理不尽な要求に応じる必要はない」「危険を感じた場合は即座に対応を中断してよい」といった、企業の方針明確化が従業員の心理的安全につながります。また、相談窓口の連絡先や利用方法も分かりやすく記載し、困ったときにすぐに相談できる体制を整えることが大切です。
被害従業員の即時ケアの手順
カスハラが発生した際、被害を受けた従業員への即時ケアは安全配慮義務を果たす上で欠かせない対応です。まず重要なのは、従業員を安全な場所に移動させ、当該顧客からの直接的な接触を遮断することです。心理的ショックを受けている状態で、無理に業務を続けさせることは避けなければなりません。
次に、上司や人事部門が従業員の話を丁寧に聞き取る時間を設けます。この際、従業員の感情や受けた影響を否定せず、共感的に受け止める姿勢が重要です。また、産業医や臨床心理士などの専門家による面談の機会を提供することも、従業員のメンタルヘルスを守るために有効です。
即時ケアの一環として、必要に応じて休暇の付与や業務軽減の措置も検討することが重要です。カスハラの影響は個人差が大きいため、従業員の状態に応じた柔軟な対応が求められます。こうした対応を通じて企業が従業員を守る姿勢を明確に示すことで、他の従業員にも安心感を与え、結果として組織全体の就業環境改善にもつながります。
証拠保全から組織的判断に進める方法
カスハラ事案への対応では、適切な証拠保全が不可欠です。通話録音、メールやチャットのログ、防犯カメラの映像、目撃者の証言など、可能な限り客観的な証拠を収集します。証拠は後の労災申請や損害賠償請求、場合によっては刑事告訴の際にも重要な役割を果たします。
証拠保全にあたっては、プライバシー保護にも配慮が必要です。個人情報保護法に則り、収集した情報の管理を適切に行い、必要最小限の範囲で利用することが求められます。また、従業員の同意を得た上で証拠を収集することも、信頼関係を維持する上で重要です。
収集した証拠をもとに、企業は組織的な判断を行います。カスハラに該当するかどうか、顧客との取引を継続するか終了するか、法的措置を取るべきかなど、複数の視点から総合的に検討します。この判断には、法務部門や外部の弁護士の助言を得ることも有効です。組織として一貫した対応を取ることで、従業員保護の実効性を高め、再発防止策の基盤を作ることができます。
カスタマーハラスメント対策研修ならパーソルビジネスプロセスデザインへ
本記事では、安全配慮義務の法的根拠から、カスタマーハラスメントの定義、企業が直面するリスク、そして実践的な現場対策まで解説しました。労働契約法第5条に定められた安全配慮義務は、企業が従業員を守るための基本的責任であり、カスハラ対策はその重要な一部です。2023年の労災認定基準改正により、企業の対応責任はより明確になっています。
カスハラを放置することは、労災認定による経済的負担、損害賠償リスク、人材流出など、企業に多大な影響をもたらします。これらのリスクを回避するには、顧客対応マニュアルの整備、相談窓口設置、社内研修の実施、被害従業員へのケアなど、包括的な対策が必要です。特に判例で評価された具体策を参考にしながら、自社の状況に合わせた実効性のある取り組みを進めることが求められます。
パーソルビジネスプロセスデザインでは、カスタマーハラスメントに対応するための基本方針の策定やマニュアルの作成、従業員向けの研修などのサービスを提供しています。
また、カスタマーハラスメントが発生した際に「内部的な相談窓口を設けたい」という場合にもご相談ください。カスタマーハラスメントについて対策を講じたい方は、ぜひお気軽にご相談ください。